2013/02/27

映画度



映画らしい映画を求めて

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小説なら小説、演劇なら演劇、オペラならオペラ、それぞれのジャンルにはそれぞれの固有の特徴があるはずだ。最近というよりもうかなり以前から「近頃は映画らしい映画がない」とか「最近の映画はテレビドラマであって映画とはよべない」などと言われるのを耳や目にする。そして自分も同じような思いを持っている。ではこの似て非なるとされる映画とテレビドラマの違いとは何なのだろう。

Krzysztof Kieślowski (1941-1996)

映画に関する本は、中学・高校の頃はよく読んだけれど、最近はほとんど読まない。だから誰がどんなことを書いているかは知らないけれど、映画作品とテレビドラマの違いを主に論じたのにはまだ一度も出会っていない。記憶にあるのはキェシロフスキの口述自伝の中の一節ぐらいだ。それは制作費の大小からくる差で、予算の少ないテレビドラマではアップが多用されるということだった。それは例えばレストランのシーンで、主人公の顔をアップでとらえてしまえば周囲はほとんど写らないが、カメラをひいた場合には隣のテーブルで食事をする人や料理も写るので余計に費用がかかるというようなことだろう。

それに加えて、テレビ画面が映画スクリーンよりはるかに小さいのも、テレビにアップが向いている理由だろう。その意味ではスクリーンを想定して撮影された映画のフレームは、DVDなどを小さなテレビで見るには不向きかも知れない。最近はテレビで放映することを前提とし、DVD化することを前提として映画が製作されるから、ここにまず映画がテレビドラマ的になってしまった一つの原因があるかも知れない。最近もう少しカメラをひいたらいいのにな~と感じるフレームが多い(100mmのレンズで撮ってるなら75mmに、10mの距離にカメラがあるなら15mに、といった感じ)。


さていま引用したクシシュトフ・キェシロフスキ監督だけれど、彼には『デカローグ』という各編約一時間の独立した10編からなるテレビドラマ・シリーズがある。毎週テレビで放映されたときにはワルシャワの町から人影が減ったといわれる人気ドラマだ(女湯が空になるというのが日本でもありましたっけ*)。これが製作されたときポーランドは共産主義国家で、テレビも映画も国営だった。10編のシリーズを撮るのにテレビ局から提出された予算にキェシロフスキはやや不足を感じた。そこで映画を2本撮るということで映画用に予算を得て、彼はその全予算を使って60分のドラマ10編と90分の劇場用映画2本を作った。2本の映画とは『殺人に関する短いフィルム』と『愛に関する短いフィルム』で、それぞれテレビドラマ『デカローグ』の第5話と第6話の長尺劇場版だ。


映画2本用に追加された予算がどれほどだったかはわからないが、仮にそれがドラマ10本分と同額であったとしたら、キェシロフスキは当初の予算の倍の予算で10本のドラマを撮ったとも言える。2本の劇場版も作るとは言ってもセットやロケにかかる費用は同じだからだ。『デカローグ』はテレビでの放映のために作られたテレビドラマではあるけれど、今話題にしている「映画らしさ」「映画度」という意味では立派に「映画」だ。今はあまり使われなくなったけれど「テレビ映画」という言われ方も昔はあったっけ。たとえて言えば、テレビの予算だけではアップにしなければならなかったのを、映画的予算が使えたのでひいたフレームで撮ることができ、結果テレビドラマ的ではない本物の映画的映画になったということかも知れない。テレビドラマ10本用に提出された予算が10本のドラマを作るのに不足だったということは、彼が撮ろうとしたものは(予算的に)テレビドラマを超えたものだったということでもあり、つまりは彼はドラマ人ではなく映画人だったということだ。(つづく)



*註:1952年NHKのラジオドラマ『君の名は』に関するエピソード



2013.02.27   
ラッコのチャーリー

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