2014/11/23

映画の予告編につて Les bandes-annonces



Ce texte à pour but de critiquer la tendance récente (mais démodée) des bandes-annonces des films au Japon. Vous en trouverez un résumé en français au-dessous du texte en japonais.




今日は映画の予告編についてのグチを書かせていただきます。

昨今の映画の予告編についての不満は主に2つあるのですが、短く済む方から書きます。それは見る者に誤解させることを意図的に狙った予告編が最近は当たり前のようになっていることです。具体例はすぐには思い出せないので「例えば」ということで説明します。映画の中で夫婦の妻の母親が事故にあってしばらく松葉杖や車椅子など不自由な生活を余儀なくされて、その妻は実家にしばらく手伝いに行くことになったとします。で夫に「しばらく実家に行きます」と言ったとします。このセリフをまったく別のシーンのほんの些細な夫婦喧嘩の映像にかぶせると、見る者は「夫婦間に何か不和があって、怒った妻が実家に行ってしばらく夫と距離を置くことにした」というように解釈するよう仕向けられます。なるほど音声(セリフ)も映像も実際に映画の中にあるものだとしても、これは明らかに見る者の誤解を狙った創作です。でもこれに類するような予告編の作りは最近よく目にします。映画の予告編を、映画という商品のコマーシャルだとするならば、これは偽りの広告です。こういうことはやってはならないことだと思います。

さて2つ目、今日の本題です。最初に書いておきますが、これは予告編を制作している配給会社なりを批判するものでは "必ずしも" ないということです。それはもし最後まで読んでいただければ御理解いただけると思います。

こちらの例は山ほどありますが、まずは『マルタのことづけ』というメキシコ映画を例にとりたいと思います。(「余命わずかな4人の子持ちシングルマザーと孤独な主人公の出会いを通して、(…)。」シネマトゥデイより)


上に引用した画像は、この映画のフランス版の予告編の、全48カットのキャプチャー画像です(クリックで拡大します)。メキシコ映画でスペイン語なので、当然セリフにはフランス語の字幕がついています。一応そのセリフに対する字幕の日本語訳を下に示します(解りやすいように発言者名を補ってあります)。

  職場の守衛:元気かい?
  クラウディア:全然!

  スーパーの女性客:色々な人に出会えて楽しいでしょ。
           少なくとも、話が出来るでしょ!
  クラウディア:おしゃべりはしちゃいけないことになっているんです。

  医師:盲腸炎ですね。

  マルタ:独りなの?
  クラウディア:いいえ。
  マルタ:じゃ、家族の人は?

  マルタ:乗って!
  クラウディア:ありがとう。
  マルタ:これが娘のマリアナ。
      マリアナ、クラウディアに挨拶なさい。

  マルタ:あの外にいるのがウェンディー。

  ウェンディー:ベジタリアンなの?
         私もやろうとしたけど、肉が好きでダメだったわ。

  マルタ:あなた、いつから独りなの?
  クラウディア:母はもう亡くなった。
  マルタ:お父さんは?
  クラウディア:知らない。

  ウェンディー:どうしてあなたは私たちのところにいるの?
         あなたにはそれが幸せ?

  マルタ:それから、
      3年たって…、
      アルマンドに出会ったの。
  クラウディア:彼があなたに病気をうつしたの?
  マルタ:そう。

  マルタ:クラウディア、私たちのもとを去らないで。
      私たちの生活に(人生に)やってきてくれて、ありがとう。

このセリフの字幕以外に画面に現れるのは、配給会社のロゴ画面や映画祭での受賞歴、劇場公開日、あとは題名と監督名(ちなみにこの映画の原題は「へんてこりんなナマズ」ぐらいの意)。それだけです。


それに対して日本版予告編はどうでしょう。映像自体の編集も違っているけれど、それをここではまず無視するとして、「奇跡のような出会いから始まった本当の物語」というテロップ。これはまあ良いでしょう。問題なのはやがて始まる安っぽい情感のこもった女声のナレーション。曰く「ひとりぼっちで生きてきたクラウディアが出会ったのは、マルタとその4人の子供たち。初めて知った家族のぬくもり。そして母親の愛。」次に「尽きようとするマルタの命」とい文字画面があって、またナレーションが続きます。「私がいなくなっても、みんな笑顔でいて欲しいから。残したい、愛しいあなたたちへ。」そして画面向かって右下にメモノート風なのが3枚示される。

  <マルタがやっておきたいこと>①
  家に帰って、子どもたちに料理を作る ※ソーセージは多めに

  <マルタがやっておきたいこと>②
  クラウディアを独りにしない

  <マルタがやっておきたいこと>③
  家族全員で海でバカンス


最後にはまず「マルタのことづけ」というタイトルの文字にかぶされた女声ナレーターの「マルタのことづけ」とい発声。そして

 「ふとした出会いが彷徨う命を輝かせ、孤独な心に明かりを灯す。
  人が出会い寄り添う、それが人生なのだ。
  マルタの言葉は心に深く残り、その愛は色褪せることはない。
  この作品は、私の心にずっと寄り添う映画になるだろう。
                     ―― 南果歩(女優)」

という文字画面で終わります。



もう1本引用しましょう。『ウィークエンドはパリで』です。この映画はイギリス映画なので、パリが舞台ですがほとんどが英語。なのでフランス版予告編にはフランス語字幕が入ります。もっとも英語版予告編もこのフランス版とほとんど同じです。英語音声の聞き取りよりもフランス語字幕の採録の方が楽なのでこちらを選びました。ただYouTubeなどには途中に入る文字画面にちょっとした差がある2つのバージョンがあります。長い方は同じ監督の『恋とニュースのつくり方』がフランス公開タイトル『Morning Glory』ではなくカナダ・ケベック地区での公開タイトル『La gloire des ondes』になっているのでカナダ版フランス語予告編なのかも知れません。まずはセリフ字幕の日本語訳です。


 (タクシーでぐるぐる回りをしている)
  ニック:なんでこんなことやってるんだい?
  メグ:なんで、どうして、ですって?
     パリにいるのよ。
  ニック:まさしく。
      だったら止まった方が良いんじゃないの?。

 (レストランを物色しながら)
  メグ:ここは現代的過ぎるわ。
     ここはお客さんがいないわね。
     ここは観光客向け過ぎるわ。

 (モンマルトルの階段を昇ってきて)
  ニック:膝は大丈夫かい?
  メグ:今のところは。

  エヴ(ニックの旧友モーガンの若い妻):どうしてパリにいらっしゃるの?
  メグ:結婚記念の旅行なの。
  エヴ:お二人の時間があるわけね。

  メグ:黙って!
     バカ!
     あなたほど私を苛つかせる人はいないわ。

  ニック:人の気持ちは愛から憎しみへと変わる…

  ニック(坂道で転んで):本当に痛いんだよ。

  ニック(二つ前のセリフの続き):…僕の経験では5分で。

  メグ(突然走って逃げ出して):私を捕まえて!

  メグ:面白かったわね。

  ニック:人は変わらない。
  メグ:そんなことないわ、ひどくなるものよ。

  メグ(ホテルの部屋で夫を挑発するように)私をお気にめして?

 (レストランで)
  ボーイ:お勘定です。

  ニック:すごい金額だね。
  メグ:あなた、コートを持ってきてね。
 (無銭飲食をして逃げる二人)
  メグ:子供たちには内緒よ。

 (二人を招いたパーティーでのテーブルで)
  モーガン:ニック・バロウは、昨日会ったとき、
       道路で女性とキスをしていたんだけれど、
       その女性が妻だって言い張るんだよね。
     
  モーガン:将来に乾杯!

  ニック:ドラッグ、セックス、離婚、死。

  メグ:パリ!

  メグ:誰がパリ以外に住みたいと思うかしら?

この途中に文字画面がいくつか挿入されます。

  ニックとメグはパリを再訪した
  二度目のハネムーン
  最後のチャンス(カナダ?版のみ)
  『ノッティングヒルの恋人』、『ヴィーナス』
  と『恋とニュースのつくり方』の監督の作品(カナダ?版のみ)
  ある夫婦が
  かつての愛の輝きを取り戻しに
  この光の都で


他にカナダ?版にはメディアの批評の引用のテロップが2つ。

  「心地よく辛辣」(LES FICHES DU CINÉMA)
  「心地よいロマンチック・コメディー」(TÉLÉCINÉ OBS)

さて日本版の予告編です。ここでもまずは引用シーンの編集の差は無視するとして、なんと、

   愛とは、お互いを見つめ合うことではなく、
   共に同じ方向を見ることだ。
            サン=テグジュペリ
             「星の王子さま」

という文字画面から始まります。


そして、

   心配性のニックと好奇心旺盛なメグ
   結婚記念日を祝うため
   週末にかつての新婚旅行先パリへ
   いつもはすれ違いばかりだけど
   その旧友との再会が
   ふたりの歯車を狂わせてしまう
   本当の思いが導く未来とは
   旅先で気づく
   夜に傷つけあっても
   朝には笑いあえる幸せ
   きっとあなたも
   大切な人と旅に出たくなる
   ウィークエンドはパリで

という、またも安っぽい情感のこもった女声のナレーションが入ります。

2本の映画の予告編を日仏の両版で比較してみました。日本版の予告編がいかにニュートラルでなく、おせっかいで押しつけがましいかがお分かりになったでしょうか?。よくDVDの映像特典にオリジナル版予告編と日本版予告編が入っています。あるいは「英語でもフランス語でもアルファベットのタイトル + スペース + IMDb」と入れてGoogleなどで検索し、IMDbのその作品ページにある「aka」というのをクリックすると各国語でのタイトルが列挙されているので、それをコピー&ペーストでYouTubeのページで検索すれば、ドイツ版の予告編やら、ブラジル版の予告編やら、色々な国の予告編が見られます。『テッド』の予告編の場合、基本同じ構成なのに国によってセクシャルな映像がカットされていたりして、その国の状況を垣間見れるのもまた興味深いものです。横道にそれましたが、こうして各国の予告編を比べると、日本のがどれだけ「おせっかいで押しつけがましいか」がわかります。


『マルタのことづけ』の方で言えば、たとえば「初めて知った家族のぬくもり。そして母親の愛。」というナレーションが入りますが、それは映画の中でクラウディアのセリフにあるものでも何でもなく、単なる予告編制作者のおせっかいであって、実際に映画を観て観客が感じるべきことです。メモ書き風の<マルタがやっておきたいこと>①②③にしても、マルタがそうした思いを映画の中で語る、あるいは書くわけではありません。イザベル・コイシェ監督の『死ぬまでにしたい10のこと』ではガンで余命を宣告されたサラ・ポーリーは「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書き出しますが、それとは違います。きわめつけな南果歩のコメントを表示した文字画面。この女優さんは好きでも嫌いでもありませんが、別に彼女の意見など聞きたくもありません。


あるいは2本目の『ウィークエンドはパリで』はどうでしょう。なんで予告編は冒頭でサン=テグジュペリを引用しなければならないのでしょうか?。映画にはまったく無関係です。もちろん映画批評を書く場合にこのサン=テグジュペリの有名な文を引用して論を進めることはおおいにけっこうです。しかしこれは予告編です。「心配性のニックと好奇心旺盛なメグ」「いつもはすれ違いばかりだけど」「夜に傷つけあっても 朝には笑いあえる幸せ」。これらも映画を観た観客が感じるべきことであって、映画の配給者が観客に教えてくれるべきことではないはずです。そしてこちらのきわめつけは「きっとあなたも 大切な人と旅に出たくなる」でしょうか。映画を観て「大切な人と旅に出たくなる」のは観客の自由ですが、観客は「大切な人と旅に出たくなるような映画」を求めて映画を観にいくのではないはずです。別の独り言にも書きましたが、ミヒャエル・ハネケの『愛、アムール』の予告編の最後には「人生はかくも長く、素晴らしい。」と押しつけがましい解釈が出ます。


最初の方にお断りしたように、以上に書いた日本版予告編批判は、その予告編の制作者なり、配給会社を批判するものでは、必ずしもありません。予告編というのはコマーシャルです。劇場で他の映画の前に上映するにせよ、もっと短いスポットをテレビで流すにしても、なるべく多くの観客を動員するための宣伝です。だとすると、海外のような「そっけない(?)」予告編よりも、日本の「おせっかいな」予告編の方が、日本では宣伝効果が高いということなのかも知れません。そうであるなら、そっけない(?)予告編では人々は映画館に足を運ぶ気にはならないけれど、おせっかいな予告編を見ると映画館に観に行きたくなるということになります。つまりは配給会社の問題ではなく、観客の問題です。でも一方では、そんなに映画好きというのでもない知人の口から「ああいううるさい予告編ってイヤになるね」というような言葉を少なからず耳にします。あるいは単に旧来の予告編の作り方を変えようとしていないだけかも知れません。


海外と日本の予告編の性格の違いは、もちろん海外の予告編の作りにも作為はあるわけですが、基本的に映画の中からとられた場面を見てどういう映画であるかを観客が自分で判断するのが海外の予告編。それに対してその判断を予告編制作者があらかじめ策定し、それを情感をこめたナレーションなどを使って観客に提示してくれるのが日本の予告編なのではないでしょうか。このブログで映画以外のことを書いた「独り言」の中にも、自分で主体的な判断をしようとする欧米人(欧米人に限らず多くの非日本人)に対して、自分で判断しようとせず、ただ他者(権威や世間)の判断をそのまま受け入れようとするのが日本人であるというような対比について書いたものがあります。そしてその差は大人と子供の違いとも関連しているでしょうし、他人と違った独自の意見(個性)の尊重よりも、多くの人と同じであることの「和」に安心する日本人の性格とも無関係ではないはずです。だからこそ南果歩さんが感動したというようなコメントは、一つには判断を与えてくれるものであり、他方彼女との同じ感動の共有という「和」に誘うものでもあり、二重に意味で宣伝効果のあるものなのかも知れません。そして "情感をこめた" ナレーションと無関係でないと思われるのが、この手の映画では「情」を強調して作られていることです。上に2本の映画のフランス版予告編のセリフを採録しましたが、1本目ではマルタの具合が悪くなって病院へ向かう場面、「死ぬのを見たくないの」という末娘マリアナ、「時々 死ぬのが怖くなる」というマルタ等、情に訴えるシーンでフランス版予告編にはない部分が使われています。2本目では「記念日に僕を捨てるのか?」や「行かないでくれ」というニックに対して哀れを催させるような部分が日本版では使われています。


長いグチを書いてしまいましたが、簡単に言えば、ナレーション入りの、情に訴え過ぎた予告編と、映画の内容を意図的に誤解させる再編集の予告編はやめて欲しいということです。



2014.11.23
ラッコのチャーリー



Premier exemple. La bande-annoce du film mexicain « Les Drôles de Poissons-chats » de Claudia Sainte-Luce. La bande-annonce française nous montre seulement les scènes du film avec le titre et le nom de la réalisatrice du film. Mais celle au Japon une narration émotionnelle d'une voix féminine nous raconte: « Claudia qui menait une vie solitaire a fait connaissance de Martha et ses quatre enfants. Elle touche pour la première fois le clan, l'environnement affectueux et tendre d'une famille et une affection profonde d'une mère envers ses enfants. Mais la vie de Martha va s'éteindre. Ce qu'elle espère c'est que même après sa mort, tout le monde ne perd pas le sourire. Ce qu'elle veut laisser à ses enfants qu'elle aime du cœur... » Et cette bande-annonce finit par un intertitre suivant. « Une rencontre inattendue fait briller la vie errante, éclairant le cœur solitaire. La rencontre et la relation affectueuse, c'est la vie. Les paroles de Martha restent profondément dans notre cœur, et ne flétrissent jamais. Ce film sera un film qui accompagnera mon cœur à jamais. ( commentaire de l'actrice Kaho Minami ) ».

Deuxième exemple. Le film britannique « Un week-end à Paris » de Roger Mitchell. La bande-annonce française (ou québécoise) se constitue par les scènes du film avec les intertitres qui expliquent l'intrigue du film: « NICK ET MEG / RETOURNENT A PARIS / POUR UNE DEUXIÈME LUNE DE MIEL / COMMENT UN COUPLE / VA RETROUVER L'ÉTINCELLE / DANS LA VILLE LUMIÈRE ». Par contre, ici aussi, celle japonaise comporte une narration plus ou moins émotionnelle d'une voix féminine: « Nick, pessimiste, et Meg, curieuse / Pour fêter leur anniversaire de mariage / Vont à Paris un week-end / Où ils étaient en voyage de noces / Les jours quotidiens sont toujours pleins de désaccords / Les retrouvailles d'un vieil ami de Nick / Vont bouleverser la relation époux-épouse / Qu'est-ce qu'est un avenir à quoi leurs vrais sentiments conduisent / Seulement lors d'un voyage nous fait connaître la vérité / Le bonheur de pouvoir se rigoler le matin / Après la dispute de la veille / Certes vous aussi / Vous désirerez partir à un voyage avec votre partenaire précieux(se).» En plus cette bande-annonce commence par une citation du texte de Saint-Exupéry: Aimer, ce n'est pas se regarder l'un l'autre, c'est regarder ensemble dans la même direction.

Ces narrations ou citation sont ennuyeuses. « Elle touche pour la première fois le clan, l'environnement affectueux et tendre d'une famille et une affection profonde d'une mère envers ses enfants. » Bon. D'accord. Je ne contredis pas. Toutefois, ce n'est pas quelque chose que la bande-annonce nous enseigne, mais c'est le spectateur qui le sent en regardant le film. C'est de même pour « Le bonheur de pouvoir se rigoler le matin / Après la dispute de la veille». Je suis bien d'accord que quelqu'un cite la phrase de Saint-Exupéry en écrivant une critique de ce film, mais ce n'est pas le cas pour une bande-annonce. Tout cela est trop embêtant et ennuyeux. La bande-annonce doit nous faire entrevoir le film mais ne doit pas déterminer d'avance comment les spectateurs doivent le voir. La bande-annonce japonais du film « Amour » de Michael Haneke finit avec un intertitre: « La vie est tellement longue et magnifique ». Mais cela doit être l'impression d'un tel ou tel spectateur après avoir vu le film.

Je n'accuse pas forcément le distributeur qui a rédigé ces bandes-annonces. Elles sont des publicités pour faire venir plus de spectateurs aux cinémas. Certes les distributeurs ont bien pensé à leur efficacité. Alors, c'est peut-être cette sorte de bande-annonce qui attire plus de spectateurs au Japon. Ou bien tout simplement ils se sont satisfaits à la mode ancienne, désuète, et n'en veulent pas de réforme. Mais il est vrai aussi qu'il y a des gens autour de moi qui disent qu'ils en ont marre de ces bandes-annonces fouineuses et trop insistantes. Et je pense aussi au caractère des Japonais qui évitent plus ou moins de juger quelque chose soi-même et ont tendance à accepter une opinion courante. De toute façon, en un seul mot, je n'aime pas une telle sorte de bande-annonce.

(écrit par racquo)


2014/11/18

海を感じる時 Umi wo kanjiru toki



Il y a une brève introduction en français sous le texte en japonais.



原題 Titre original : 海を感じる時 Umi wo kanjiru toki
(qui veut dire littéralement "Quand je sens la mer")
Réalisé par Hiroshi Ando
Écrit par Haruhiko Arai
d'après le roman éponyme de Kei Nakazawa
Prise de vue : Kazuhiro Suzuki
Avec:Yui Ichikawa, Sôsuke Ikematsu
2014 Japon / color 118min (ratio 1,85)
監督:安藤尋
脚本:荒井晴彦 
(中沢けいの同名の小説による)
撮影:鈴木一博
出演:市川由衣 、池松壮亮 
2014.11.14 桜坂劇場 ホールAにて


新聞部の部室で高一の女子高生・恵美子は高三の洋から突然キスを迫られる。洋は恵美子のことが好きでもなんでもないけれど、ただ女の人の体に興味があっただけだと言うが、洋のことを好きだと思っていた恵美子は洋を追い回し、洋の愛を求める。進学で洋は上京。恵美子はときどき東京に洋を訪ねるが、洋も彼女を前にするとその体を拒むことができない。大学受験に失敗し、彼を追って千葉・房総海岸の母子家庭の実家から恵美子も東京に出て花屋に就職。「体だけでもあなたの必要にされればそれでいい」という彼女だけれど、実際には洋の心を求めている。やがて一緒に暮らすようにはなるのだが…。


植物園で追ってくる市川由衣に池松壮亮が「ついてくんなっ、帰れ!」と拒絶する映像で始まり、市川由衣は「してくれなきゃ帰れない」と言い、「1978年に”文学上の事件”と評された/18歳の現役女子高生が描いた/衝撃の問題作」、縦書きで「海を感じる時」とタイトルが出る。そこに「誰にでも愛される女…」と演歌っぽいフォークの歌声がかぶり…。高校の新聞部部室で市川由衣が読む『朝日ジャーナル』、母親が娘を諭す場面の背景に映るティッシュの箱のサイズ等から(もちろんよく見れば服装などからも)映画の時代設定が原作の70年代末に据えられていることがわかる。そして畳の部屋で裸で並んで座る二人の後ろ姿。そんな予告編から「たぶん駄目な作品だな?!」という漠然として予想をして観にいったが、やはり駄目ダメな映画だった。


予告編でなぜ駄目だと予想したかと言えば、文芸映画ではしばしばあることなのだけれど、原作に引っ張られすぎていると感じたからだ。女子高生の書いた衝撃の問題作の映画化であると強調した予告編にみる「売り」要因。縦書きのタイトル。古くさい音楽。原作の時代設定の踏襲。映画的ではないわざとらしい裸の後ろ姿のツーショット。映画は映画であって、映画であるべきで、小説の単なる映像化はつまらない。この作品を実際に観て思ったのだけれど、テーマ自体、プロット自体は、2010年代の現代に時代を設定しても十分映画になりうるものだ。その場合に必要とされるのは、原作の内容を深く読み解き、咀嚼し、現代という時代にそれを描き直すことだ(これでこそ創作)。脚本や監督にはそれが要求される。これは実は原作の1970年代末に時代を設定しても同じことなのだけれど、弱い個性は、表面的に原作に忠実に、また原作の1970年代末を描くことだけで何かを作った気になってしまう。たとえて言えば、現代のドラマならば内容が空疎ならつまらないが、時代劇なら内容がなくても和服にチョンマゲに長屋に武士に刀に…だけで何かを作り得た気になってしまうことだ。


そしてそれと似たもう一つの要因は性描写。作品の内容上セックス描写はある程度必須かも知れない。裸のシーン、カラミのシーンが非常に多く、この映画のレイティングはR15+。でもどうだろう。この映画、かつてのアメリカのヘイズ・コードの枠内でも十分に映画になるのではないだろうか。セックスは主要なテーマではあるけれど、それ以上に恵美子や洋のそれにまつわる心理の方が大切な物語だ。そのためには恵美子を演ずる市川由衣の裸の映像はさほど必要ではない。しかしこの映画は裸や性描写を多用するだけで、心理の方はあまり描こうとしない。AVではないのだから、裸とカラミだけでは作品とはならない。時間関係が頻繁に前に行ったり、後に戻ったりするのだけれど、そしてそれが不快なわけではないけれど、もしもこの映画の全シーンを時間順に並べ変えて観たとしたら、さらにつまらないものとなるだろう。それは脚本なり監督に二人の主人公の心理に対する考察が薄っぺらいからだ。良い映画といものは、たとえ全体のストーリーを知らなくても、ある1シーンを見ただけで強いインパクトを感じるものだが、そういうシーンや演技はこの作品には皆無だ(母と娘のシーンはやや除くとして)。この映画の市川由衣は無駄脱ぎだとは言わない。なぜなら彼女の脱ぎしか内容はないのだから。でもそもそもボクは市川由衣なる女優さんをよく知らない。調べたらテレビドラマには50本以上も出演しているようだが、テレビを見ない自分には無縁。劇場映画では『罪とか罰とか』と『TOKYO TRIBE』で見ているらしいのだけれど、まったく記憶にない女優さんだ。



映画度:★/5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2014.11.18
ラッコのチャーリー




D'après un roman éponyme de Kei Nakazawa. La romancière a écrit cet œuvre à dix-huit ans, en 1978. À ce moment-là, c'était un événement dans le monde littéraire au Japon. 


Un jour, Emiko, une lycéenne de 15 ans, est forcée par Hiroshi, un lycéen de l'année supérieure, de laisser embrasser. Elle lui demande s'il l'aime. Il lui répond qu'il ne l'aime pas mais veut une fois embrasser une fille. Étant vaguement amoureux de lui, elle accepte. Après elle commence à le suivre espérant acquérir l'amour (mental) de celui-ci. Face à elle, il lui demande de ne par venir le voir, parce que sinon il ne peut pas se passer de la baiser. Elle lui dit que même si ce n'est que son corps qui l'intéresse, être nécessaire pour lui d'une telle manière lui suffit. Alors leur relation continue dans ce style. Au bout de quelques années ils commencent à vivre ensemble, mais....


Je ne crois pas ni espère pas du tout qu'en France ou au Canada ce navet soit publié en salle ou en DVD, mais si par accident vous auriez l'occasion de le voir, l'évitez pour ne pas perdre votre précieux temps. On ne raconte pas la psychologie du héros et de l'héroïne, ne montre que les scènes d'amour en nudité. Le film a superficiellement mis le texte du roman en image, pas plus. Comme cela arrive souvent aux tant de films littéraires. 


Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.


(écrit par racquo)

Liste des critiques en français








2014/11/12

外国固有名のカタカナ表記について


  (映画を中心に)

Ce texte à pour but de critiquer la tendance récente de transcription par les katakanas des noms propres étrangers en japonais. Alors, il n'y a pas de texte en français.

レフ・ヴァウェンサを描いたアンジェイ・ワイダ監督の映画 "Wałęsa. Człowiek z nadziei" は『ワレサ 連帯の男』という邦題で公開された。レフ・ワレサの名は80年代にポーランドの民主化運動の指導者として当時のニュースで連日報道された。その後この人レフ・ワレサはノーベル平和賞を受賞し、またポーランドの大統領にまでなった。多くの日本人、特に現在50歳代以上の人にとって「ワレサ」というのはなにがしかの記憶に残っている名前だ。だからこの映画の配給者が最近の原発音に忠実を旨とするヴァウェンサではなくワレサを用いたのは正解だと思う。ヴァウェンサでははっきり言って、正直に言って、ピンとこない。しかるに、たとえば Wikipedia 日本語版を見ると、ページタイトルは「レフ・ヴァウェンサ」となっていて、「ワレサ」という表記はポーランド語アルファベットに対する誤認識から生じた不正確なものと断じている。しかし「日本ではワレサと呼ぶ」でどこが悪いのだろうか?。日産自動車は輸出ブランドとして Nissan ではなく Datsun を使っていたが、フランスではこれを「ダツン」と読んでいた。あえてヴァウェンサという "より原発音に忠実にしようという" 動きには、学術的であるよりも、何か小賢しいしたり顔が見えてしようがない。

このような問題が生じる原因は、もちろん日本語、あるいはカタカナ表記という、元の言語のアルファベットなり、漢字なり、ハングル文字なり、アラビアやヘブライ文字等とはまったく異なっている表音文字(カタカナ)を使わなければならないことにある。『ふたりのベロニカ』や三部作『トリコロール/青の愛・白の愛・赤の愛』の映画監督を我々はクシシュトフ・キェシロフスキの名で知っている。ポーランド語ではKrzysztof Kieślowskiと記す。ポーランド語には詳しくないが、きっとこのカタカナ表記が原発音に忠実なのだろう。しかし例えばフランスでは「s」の上に「´」をつけてKrzysztof Kieślowskiと記すにせよ、フランス語にはそんな「´」のついた「s」は存在しないからKrzysztof Kieslowskiと記すにせよ、ごく当たり前に「クリストフ・キエスロウスキ」とフランス語読みにする。この監督の出身校である有名な映画大学の所在地、ポーランドの第2の都市であるウッチ(Łódź)も、フランスではŁódźと表記するにせよLodzと表記するにせよ普通「ロズ」なり「ローズ」と発音している。これは中華人民共和国の首都を中国語でも日本語でも「北京」と漢字表記し、中国では中国語普通話で「ベィジーン」と発音するのに日本では「ペキン」と読んでいる関係に似ているかも知れない。

そもそもフランス語や英語には原音や原表記とは離れた独自の表記や発音を使ってきた伝統がある。フランスでは、ネーデルランドの神学者・哲学者 Erasmus エラスムス(ラテン語)のことは Érasme と書いてエラスム(ないしエラースム)と呼び、古代ギリシアの Σωκράτης Ὅμηρος は日本ではソクラテスやホメロス、最近ではソークラテースやホメーロスだが、フランスでは Socrate や Homère と書き、発音はソクラットやオメール。後者の著作は日本ではイーリアスやオデュッセイアだが、フランスでは Iliade や Odyssée と書き、発音はイリヤッドやオディセで、原ギリシャ語発音からはほど遠い。もちろんこうした例はもう何百年も前からエラスムスやホメロスがフランスの文化の一部を構成するほどに重要なものだったからなのだけれど、だから現在も原ギリシア語に近づけるなどということは話題にならない。


岩波ホールのエキプ・ド・シネマにはその名も『EQUIPE DE CINEMA』という映画プログラムを兼ねた会報がある。その第7号は1975年7月の発行で、イングマール・ベルイマンの3作品(魔術師、夜の儀式、冬の光)を上映したときのものだ。編集後記に Ingmar Bergman のカタカナ表記のことが記されている。「ベルイマンという氏名表記をベルィマンと改めた。スウェーデン大使館の、たっての要請によるものである。Bergman の g は、英語の y に相当するので、本国のスウェーデンではベリーマンと発音されるそうだ。日本ではベルイマンと書く習慣が根強いので、苦肉の策としての字を小さくと記すことで、正式な発音に近づけることを考えた訳である。」とあり、この号の中ではすべてイングマール・ベルィマンとなっている。岩波ホールで次にベルイマンの作品が上映されたのは1981年で、『EQUIPE DE CINEMA』第44号(1981年3月発行、ある結婚の風景)、第48号(1981年10月発行、秋のソナタ)では小さい「ィ」を使わない従来のベルイマンに戻っている。そしてその岩波ホールは本年(2014年)4月、最初に書いたように「ヴァウェンサ」ではなく「ワレサ」を用いた。

そもそもカタカナ表記の正確性にどれだけ意味があるのだろうか?。英語やフランス語の「L」と「R」の区別すら普通されていない。英語の lap も rap もラップであり、lip も rip もリップだし、フランス語の loi も roi もロワだ。フランスの都市名であるパリにしてもマルセイユにしても、もしフランス語を知らない普通の日本人がこのカタカナを素直に読んだとしたら、フランス人にはそれが Paris や Marseille のことだとはすぐにはわからない可能性も高い。むしろ「パイ」なり「マウセイユ」の方が通じやすいかも知れない。

なんでこのカタカナ表記のことにこだわるか。それにはそれなりに理由がある。それはこの現代が IT の時代だからだ。我々は Google 等の検索サイトを利用することが多いし、サイト内の検索機能を使うこともある。ところがこのカタカナ表記の違いによって検索結果が違ってくるのだ。下は「レフ・ヴァウェンサ」と「レフ・ワレサ」を Google で検索した場合と、Amazon で「本」を検索した場合の結果だ。

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あるいはかつては「ミッシェル」と表記され、最近は「ミシェル」と小さい「ッ」抜きでフランス語の Michel が表記されるようになった結果、Michel Butor の『モンテーニュ論』が欲しいと思って Amazon で検索すると、「ミシェル・ビュトール」著のものは品切れで入手不能だが、「ミッシェル・ビュトール」著のものならマーケットプレイスで中古が4出品あり入手が可能だ。これは版の違いで同じ書物だ。いたずらにカタカナ表記を変えるとこういう不都合が生じてくる。Amazon で DVD を監督やキャストの名前で検索するとき、 V をバビブベボとするかヴァヴィヴヴェヴォとするかで異なった結果が出ることは良くあることだ。ヴァヴィヴヴェヴォで検索するとある映画の DVD がないのだが、バビブベボで検索するとその映画の DVD がちゃんと存在したりする。DVD を旧表記の「ガブラス」で検索すると『マッド・シティ』や『背信の日々』という映画の DVD に行き着くが、新表記「ガヴラス」ではこの作品には行き当たらない。逆に旧表記による検索では『ミッシング』は表示されない。

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だからより原語の発音に近いカタカナ表記をすることは、最初にその外国人名なり外国地名を日本に紹介する人には努力して欲しいけれど、それがたとえ多少不適切であってもひとたび流通してしまったらそれを踏襲して変えないで欲しい。作曲家ベートーベンの Wikipedia のページには「ドイツ語ではベートホーフェンに近い」と解説されているがページ名は妥当に「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」だ。レフ・ヴァウェンサについてもページ名は「レフ・ワレサ」で、「ポーランド語での正しい発音はレフ・ヴァウェンサである。」という解説でなぜ悪いのか?。上にも引用したように「レフ・ワレサ」の方が流通度が高い。わざわざ何がなんでもヴァウェンサにしたいという意識の底に、「ポーランド語ではワレサではなくヴァウェンサって言うんですよ~」と知らない人をバカにするようなしたり顔の小賢しさをどうしても感じる。我々の大多数にはポーランド人との会話で「ヴァウェンサ」なり「ワレサ」と言うことは皆無に近い。それにポーランド語が話せる人は「ヴァウェンサ」であることは知っている。むしろ英語やフランス語での会話で「ワレサ」なり「ヴァレサ」と言う可能性の方が高いはずだ。アメリカ人もフランス人も、たとえこのポーランドの連帯の男を知っていても、「ヴァウェンサ」では何のことやらわからないはずだ。



PS: ちなみにちょうど時期なので付記すると今年は今月の20日にその年の新酒が解禁される Beaujolais (nouveau) は、最近の流行の「ボジョレー」という発音よりも『広辞苑』第四版で採用されている「ボージョレー」ないし、従来の「ボージョレ」がフランス人の発音にいちばん近いカタカナ表記だと思われる。自分は「ボージョレ・ヌヴォー」と表記している。以下に引用した YouTube でのフランス人の発音を参考にしていただきたい。


一般的にフランス語の発音において「au」や「eau」は「o」よりも長くのび、また地名などに付いて形容詞を作る「ais」(例:Lyon→lyonnais リヨン→リヨンの、リヨン人)は男性形「ais」はのびず、女性形「aise」は「à la lyonnaise」(リヨン風、ア・ラ・リヨネーズ)のようにのびる。Beaujolais をボジョレーとすることはこの2つの原則を無視した、少なくともフランス語スピーカーの日本人にはわかりにくい表記だ。



2014.11.12
ラッコのチャーリー



2014/11/05

ロンドン・リバー London River



Il y a une critique en français sous le texte en japonais.




原題 Titre original : London River
Réalisé par Rachid Bouchareb
Écrit par Olivier Lorelle et Rachid Bouchareb
Prise de vue : Jérôme Alméras
Avec:Brenda Blethyn, Sotigui Kouyaté, Francis Magee, Roschdy Zem, Sami Bouajila, Vidya Fellon Sreenivasan, Diveen Henry
2009 France, GB et Algérie / color 88 min (ratio 1,85)
(tourné en 16 mm et passé en 35 mm)
(16 mmネガを35 mmプリントにブロウ・アップ)
監督:ラシッド・ブシャール
脚本:ラシッド・ブシャール
撮影:ジェローム・アルメーラ
出演:ブレンダ・ブレッシン、ソティギ・クヤテ、フランシス・マギー、ロシュディ・ゼム、サミー・ブワジラ、ビディア・フェロン・スリニバサン、ダイビーン・ヘンリー
2014.11.02 桜坂劇場 ホールCにて


エリザベス・サマーズ夫人(ブレンダ・ブレッシン)はフォークランド紛争で軍人だった夫を亡くし、ガンジー島でひとり農業を営んでいた。ガンジー島はイギリス王室属領。英仏海峡にあるといってもフランスのコタンタン半島(ノルマンディー)沖にあり、作家のヴィクトル・ユゴが亡命生活を送った島だ。映画でいえばフランソワ・トリュフォーの『アデルの恋の物語』でアデルの父ヴィクトル・ユゴが住んでいたのがこの島。地理的・歴史的にフランスとの関係も浅からずで、英語とともにフランス語も公用語となっている。だからこの映画のサマーズ夫人が流暢にフランス語を話しても不思議ではない。2005年7月7日、地下鉄と路線バス(ダブルデッカー)をターゲットとしたロンドン同時爆破事件が起る。テレビのニュースで事件を知ったサマーズ夫人は、学生の娘ジェーンがロンドンに住んでいるので不安になる。電話をするけれど何度しても留守番センターにつながるだけで娘は応答しない。彼女は家畜の世話を近くに住む弟に託してロンドンにジェーンを探しにいくことにする。


ロンドンに着いたサマーズ夫人、娘が住んでいるという住所にタクシーで向かう。ところがそこはアラブ系・イスラーム系の住民が多く住む雑然とした地区だった。彼女は戸惑う。部屋のベルを鳴らすけれどジェーンは居ない。そこに、ロシュディ・ゼムが演じているのだからモロッコやアルジェリア等北アフリカ系だろうけれど、エプロンをした肉屋の男が話しかけてくる。男は「ジェーンのお母さんですか?」と尋ね、自分がこの建物のオーナーでジェーンに部屋を貸していると。合鍵を取って来るから中に入って待つとよいと親切に言ってくれる。でもアラブ系の男を前に彼女は強ばった顔で、警戒感を隠せない。


彼女は警察に相談にいき、爆破事件の被害者が収容されている病院を回り、プリペイド携帯も買って写真入りの「尋ね人」の張り紙をする。彼女の携帯が鳴る。張り紙への反応だ。指定された安ホテルに行くと彼女を待っていたのは、こちらは現マリ出身のソティギ・クヤテ(この映画でベルリンの銀熊賞(男優賞))演じるオスマン氏。ドレッドヘアーの初老の黒人を目にしてさらなる戸惑い。握手をしようとして彼は手を差し出すが、彼女は無視する。オスマン氏はジェーンが自分の探す息子アリと一緒に写っている集合写真をサマーズ夫人に見せる。彼も息子を探しに森林保護官をしているフランスからやってきていた。フランスに15年住むオスマンは出身地のアフリカを息子アリが6歳のときに去って以来アリに会っていなかったが、アフリカに住む母が事件以来音信が途絶えて心配していて、フランスからやってきた。モスクに相談に行き、そこで渡されたのがモスクのアラビア語講座に共々通うアリとジェーンの写真だった。サマーズ夫人は写真を手にそそくさと去り、警察に通報する。そしてわかってくるのはジェーンとアリが一緒に住んでいたらしいことだ。警察は爆破事件の被害者と照合するために家宅捜査をし、2人のDNA鑑定用にサンプルとなるものをジェーンの部屋から持ち帰る。


ここまでのサマーズ夫人はフランス語で言うところの raciste(人種差別主義者)と言えるけれど、ロンドンやパリ、ニューヨークなど多人種混合都市ではなくガンジー島という離島に住んでいるのだから、彼女の戸惑いは理解できる。特別の悪意はないのだろうけれど、それでもモスクでは「何で娘がアラビア語なんて学んでいるの?!」と半ば怒り、黒板に書かれたアラビア文字を "このへんてこりんなのが文字なの!" とでも謂わんばかりだ。アルジェリア系フランス人であるブシャール監督は、こういう "善良な" 西洋白人が内心持っている差別意識を描き、それに接して不本意ながらも黙って耐える被差別側のオスマン氏を描いている。この映画ではやがて二人の間に相互理解が成立し、不安なサマーズ夫人がオスマンにハグするまでに至る(と言っても変化したのはサマーズ夫人で、オスマン氏はもとのままとも言える)。そういう意味では美しい物語で、作りのあまりのシンプルさは批判するべきではなく、シンプルな作りこそがこの映画の美点なのかも知れない。ソティギ・クヤテとブレンダ・ブレッシンがきめ細かにオスマンとサマーズを演じている。


でも一つ喰い足らない点がある。観終わって家に帰ってネットで早速調べてみたのだけれど、やはり事件後ロンドン在住のイスラム教徒やアラブ系住民に対する嫌がらせ行為があったという。アルジェリア系のブシャール監督にはイギリス白人をあまり非難するようなことが出来なかったのかも知れないが、サマーズ夫人とオスマン氏の美談を理想として描くだけではちょっと不足で、こうした誹謗中傷があったことをことさら描くというのでなくとも、その現実にさらっとでも触れておくべきだったのではないかと思う。そうでないとこの物語は結局のところ現実から遊離した理想論になってしまう。


映画度 *:★★★☆☆

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。


2014.11.05
ラッコのチャーリー


Elisabeth Sommers qui a perdu son époux militaire lors de la Guerre des Malouines (1982), vit seule, comme paysanne, à l'île de Guernesey (une dépendance de la couronne britanique, qui se trouve dans la Manche au large du Cotentin, et où Victor Hugo s'était exilé). Le matin du 7 juillet 2005, sachant à la télé qu'il y avait un attentat-suicide à Londres, Mme. Sommers appelle le portable de sa fille. Cette dernière est étudiante et vit à Londres. Aucune réponse à ses plusieurs appelles. Inquiète, elle y part chercher sa fille.


Arrivée à Londres, elle va en taxi à l'adresse où sa fille habite. À sa surprise, c'est un quartier des musulmans et des africains. Elle en est confuse. Elle sonne la porte mais pas de réponse. En l'apercevant, un boucher maghrébin l'aborde (Roschdy Zem). Pour moi qui regarde le film il semble sympa et gentil, mais elle Mme Sommers, elle est un peu gênée et certainement effrayée. Il lui demande si elle est la mère de Jane et se présente propriétaire du bâtiment et locateur. Il lui propose de l'attendre dans l'appartement de Jane. Il en a la clef en double. 


Elle poursuit la quête, allant à la police, visitant les hôpitaux. Elle achète un portable prepaid, et colle des affiches de disparu. Alors son téléphone sonne. Elle va, à un hôtel situé pas loin, voir celui qui a des informations sur sa fille. Cette fois c'était un âgé noir aux cheveux cadenettes. Elle en est embarrassée. Cet homme tend sa main pour serrer mais elle ignore. Celui-là qui s'appelle Ousmane, incarné par Sotigui Kouyaté (primé l'Ours d'argent, meilleur acteur, à Berlin 2009) lui montre une photo. Il était venu, quant à lui, chercher son fils. Il est garde forestier et vit depuis une quinzaine d'années en France, quittant le pays en Afrique quand son fils Ali n'avait que 6 ans, et n'ayant pas une fois retourné à son pays, il ne connaissait pas le visage de ce fils adulte. Il était déjà allé à une mosquée de Londres et il était informé que Jane et Ali étudiaient la langue arabe à cette mosquée, dont l'Imam lui a donné cette photo sur laquelle se figurent Ali et Jane avec les autres étudiants de ce cours d'arabe. C'était la mère d'Ali qui l'avait confié d'aller le chercher à Londres; elle vivait toujours en Afrique et était très inquiète sans une nouvelle depuis l'attentat. Mme. Sommers le quitte sans un mot la photo à la main. Elle a appelé la police, sans doute l'accusant comme le père d'un jeune Arabe qui a kidnapé sa fille.


Est-elle raciste, cette Elisabeth Sommers? Oui, elle l'est d'une certaine manière. Cependant on comprend bien ses embarras face à ces musulmans et africains. Elle ne vit pas dans une grande ville multiculturelle comme Londres ou Paris ou New York, mais dans une petite île isolée. Elle n'a peut-être pas une certaine malveillance bien concrète. Tout de même a t-elle un air irritée quand elle questionne la professeure: «Pourquoi ma fille doit étudier la langue arabe?» Le réalisateur d'origine algérienne décrit le racisme sous-jacent des blancs innocents, et la tolérance des discriminés. Vers la fin la mère blanche présente ses excuses pour sa faute initiale au père noir, ils se réconcilient et se comprennent. Une jolie histoire! L'intrigue est aussi simple qu'au bout d'un quart d'heure on peut deviner toute l'histoire. La narration est simple, docile et même naïve. Mais on ne doit peut-être pas blâmer cette simplicité, puisque sans doute c'est cette simplicité qui constitue la qualité de ce film. Savourons simplement l'histoire de ces deux personnages, adéquatement incarnées par les deux acteurs.


Cependant il y a une chose dont je ne peux pas m'en passer de remarquer. Certes au début la conduite de Mme. Sommers était décrite raciste. Mais l'histoire finit bien joliment. En réalité, il y avait à Londres, après cet attentat, des harcèlements envers les habitants islamites et arabes. Il fallait décrire, ou tout de même effleurer un tout petit peu cette réalité d'injustice. Sinon le film devient trop idéaliste, éloignant de la réalité. Je voudrais le signaler, même s'il était difficile et y avait des contraintes pour Rachid Bouchareb d'origine algérienne de critiquer les Anglais blancs.



Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.


(écrit par racquo)